2012年 09月 26日
垂井町一里塚・浅野幸長陣跡 |
垂井町一里塚
徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(4Km弱)ごとに、五間(約9メートル)四方、高さ一丈(約3メートル)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで二基ずつ気付かれた。垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。
国の史跡に指定された一里塚は中山道では東京都板橋区志村のそれと二箇所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。
浅野幸長陣跡(関ヶ原の戦い)
幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった
関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執あったため東軍に属し、その先方を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍に備えた。
戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた
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徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(4Km弱)ごとに、五間(約9メートル)四方、高さ一丈(約3メートル)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで二基ずつ気付かれた。垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。
国の史跡に指定された一里塚は中山道では東京都板橋区志村のそれと二箇所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。
浅野幸長陣跡(関ヶ原の戦い)
幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった
関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執あったため東軍に属し、その先方を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍に備えた。
戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた
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by prayer_ryukon
| 2012-09-26 07:00
| 垂井町
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