2014年 09月 11日
関ヶ原-旧陸軍火薬庫隧道 |
関ヶ原といえば天下分け目の戦いがあった場所として有名なのですが
もう一つ 東洋一とうたわれた旧日本陸軍の火薬庫「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」跡があります
関が原町史などによると 弾薬庫は1914(大正3)年、陸軍が玉地区(当時は玉村)の土地を買収して
開設した
周囲6キロ、約270ヘクタール山腹を掘った洞窟式倉庫5箇所、半洞窟式倉庫15箇所
地上倉庫27棟などを備え、弾薬に使用する火薬を大量に備蓄していた 高射砲や機関砲も配置し
警備兵が24時間態勢で警戒をしていた
戦時中、村人は米軍機による火薬庫爆撃に巻き込まれる恐怖に震えた。敷地内の田畑に行くにも
通行証を求められ軍による厳しい制約をうけた。
立哨台(りっしょうだい)
これが戦時中、火薬庫内の監視、警戒にあたる歩哨(兵士)が、昼夜を分かたず交代で立っていたボックスです。
かつてこの立哨台はレンガ造りの営門前をはじめ、庫内の主要な場所六ヶ所に設置されていて、火薬庫のシンボルともなっていました。
大正3年(1914)に開設され、
正式名は「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」といったそうです。
もう一つ 東洋一とうたわれた旧日本陸軍の火薬庫「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」跡があります
関が原町史などによると 弾薬庫は1914(大正3)年、陸軍が玉地区(当時は玉村)の土地を買収して
開設した
周囲6キロ、約270ヘクタール山腹を掘った洞窟式倉庫5箇所、半洞窟式倉庫15箇所
地上倉庫27棟などを備え、弾薬に使用する火薬を大量に備蓄していた 高射砲や機関砲も配置し
警備兵が24時間態勢で警戒をしていた
戦時中、村人は米軍機による火薬庫爆撃に巻き込まれる恐怖に震えた。敷地内の田畑に行くにも
通行証を求められ軍による厳しい制約をうけた。
立哨台(りっしょうだい)
これが戦時中、火薬庫内の監視、警戒にあたる歩哨(兵士)が、昼夜を分かたず交代で立っていたボックスです。
かつてこの立哨台はレンガ造りの営門前をはじめ、庫内の主要な場所六ヶ所に設置されていて、火薬庫のシンボルともなっていました。
大正3年(1914)に開設され、
正式名は「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」といったそうです。
by prayer_ryukon
| 2014-09-11 14:06
| 関ヶ原町
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