2013年 07月 02日
関ヶ原の首塚 |
JR関ヶ原駅の線路をはさんで東首塚と西首塚があります。
東首塚は松平忠吉、井伊直政陣跡でもあるのですが東軍諸将の軍旗が立てられおり、西首塚には西軍諸将の軍旗が翻っています。今回は東首塚に行ってきました。
当然、東首塚は東軍のものであり、西首塚は西軍のものとばかり思っていましたが 東首塚には次のような解説看板が掲げられています。
「関ヶ原の戦い直後にこの地の領主竹中家が築いたもので家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。」
と言うことは戦国時代には、戦場では首実検後に敵味方を問わず戦死者を弔い供養塚を築くのが習わしだったんですね。
昭和15年、徳川家が建てた名古屋市東区布池町護国院の大日堂と門が移築され、現在は東西両軍の供養堂とされています。
首洗いの古井戸
合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を作って懇(ねんご)ろに葬られました。
首実験に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級(しゅきゅう)の血や土などが洗いおとされたと伝えられています。
戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというならわしだったのです
松平忠吉・井伊直政陣跡
慶長5年9月15日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島。藤堂、京極、北国街道を黒田、竹中、細川の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男、松平忠吉、後の彦根城主 井伊直政が約六千の塀で陣を構えた
午前8時頃、軍艦、本多忠勝より開戦を促され、直政、忠吉を擁して前進し宇喜田秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた
東首塚は松平忠吉、井伊直政陣跡でもあるのですが東軍諸将の軍旗が立てられおり、西首塚には西軍諸将の軍旗が翻っています。今回は東首塚に行ってきました。
当然、東首塚は東軍のものであり、西首塚は西軍のものとばかり思っていましたが 東首塚には次のような解説看板が掲げられています。
「関ヶ原の戦い直後にこの地の領主竹中家が築いたもので家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。」
と言うことは戦国時代には、戦場では首実検後に敵味方を問わず戦死者を弔い供養塚を築くのが習わしだったんですね。
昭和15年、徳川家が建てた名古屋市東区布池町護国院の大日堂と門が移築され、現在は東西両軍の供養堂とされています。
首洗いの古井戸
合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を作って懇(ねんご)ろに葬られました。
首実験に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級(しゅきゅう)の血や土などが洗いおとされたと伝えられています。
戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというならわしだったのです
松平忠吉・井伊直政陣跡
慶長5年9月15日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島。藤堂、京極、北国街道を黒田、竹中、細川の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男、松平忠吉、後の彦根城主 井伊直政が約六千の塀で陣を構えた
午前8時頃、軍艦、本多忠勝より開戦を促され、直政、忠吉を擁して前進し宇喜田秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた
by prayer_ryukon
| 2013-07-02 07:29
| 関ヶ原町
|
Comments(0)